ども。


 ちゃぱ です m(*_ _)m



今日は久しぶりのなーんもない日でした。


いや。

なんもない日だったと言いつつ、

地元中学の体育館確保の代表者会議に行ったりしたけど、

そんなことが用事のうちにに入らないってくらい、

最近は精力的に動いてたなぁ(笑)



今日はバッチリ昼寝もしたので、

怒涛の今週を振り返っていきたいと思います♪(笑)



・・・とその前に。




どうしても書きたいことがあります。


それは広島のおじーちゃんが話してくれた昔話。




おじーちゃんがお酒に強いことは書いたけど、

やっぱりお酒が入るとそれなりに饒舌になるもんで。




自分の戦争体験についていろいろ話してくれました。




みなさん、これ↓ってなんだと思いますか?




終戦通達



これ。


第二次世界大戦終戦前日に政府から配布された退避勧告のビラです。



これには「原爆」という名前こそ書いていないけど、

すでにその存在が認識されていることがわかる文面になってます。




すべてを事細かには書けないけど。




おじーちゃんが原爆投下の前日にたまたま広島から大阪に行ったこと。

おじーちゃんのおじさんとその家族が命からがら避難したこと。



そんなことがあって今の僕がいて。



もしかしたら、おじーちゃんなんかは僕が留学するって言ったとき、

心の底から「いってらっしゃい。」とは思えなかったんじゃないかな、とか。


おばーちゃんは僕が留学して手紙を書くまで、

アルファベットを書いたことがなくて住所を書くために練習した

と手紙に書いてありました。

まるで小学生がノートに丁寧に練習したような

キレイなアルファベットで住所が書いてあったのを覚えてます。



あの年代の人たちにとっては、海外とかアメリカってのは、

それくらい近い経験でありながら遠い存在だった。




逆の立場ではあるけど、留学先でこんな出来事がありました。


僕が留学のときにお世話になったホストファミリーは、

お父さんもお母さんも留学先のホストペアレンツとしては比較的年がいってて、

どちらかというと僕からしたらおじーちゃんとおばーちゃんに近い感じ。


そのホストファザーのお母さん(おばーちゃん)が近くに住んでました。

3年前に亡くなってしまったけど、当時で確か90代前半。


僕は最初の3ヶ月、ドイツ人とルームシェアしてたんだけど、

やっぱり戦争のイメージもあってか、

僕たちはあまりそのおばーちゃんに好かれてなかった感じ。



嫌いじゃないにしても、どう接したら良いのか分からないというか。



んで、僕がアメリカ行って半年くらい経ったときに、

そのおばーちゃんの誕生日があって、

僕はサプライズでお花を買いに一人でモールに行きました。

そんで、歩いて帰ったらなんともうパーティは終わっちゃってて・・・


翌日渡したんだけど、そのときに初めてハグしてくれて。



もちろん、出来事としては僕が誕生日の花をあげただけ。



でも、おばーちゃんとしては国籍を超える出来事になりえたわけで。

花をあげたっていう事実じゃなくて、

僕が自ら歩み寄ろうとしたその事実が大きかった。




歴史を亡きものにしてはいけないけど、

その後の歩み寄り方っていうのがあると思うんです。




日本のこの経験。

これは何年経っても語り継がれるべき。




おじーちゃんはそういう思いで、僕にこのビラをくれたんじゃないかなと。





こういう思いをないがしろにしている日本の著名人(政治家)は

今一度、こういう声に耳を傾けて欲しい。



こんなところでしか書けなくて、

なんの影響力を持てない自分の無力さにがっかりだけど、

僕は違う方向からこの思いを大切にしていきたいと思います。





それでは。



おじーちゃんの一言


【 ただ運が良かったとしか言えんよね。 】